私は物を集めるのが得意です。
って書くと、いったいなんの話?と思われる方もいるかもしれません。
例えば、ですが
着なくなった服を処分するとき、ボタン、どうされますか?
私は基本的に外して、保管に回します。つけたまま捨てることはしません。
クスリの空き瓶などに集めておくと、すぐにパンパンになります。
住んでいる自治体では古着回収があります。これは古着を売ってリサイクルするしくみではなく、古布(ウエス)に加工するために集めているのです。
古着回収に出す際に別求められてもいませんが、ボタンを外した方がよいだろうと考えて……
というのは口実です。
本当は分かっているのです。
まだ使えるものを捨てたくない。
ボタンは意外と値段が高い(洋裁をしていた母の買い物についていき、単品で買うとそれなりの価格だと知っていました)。
着ている服のボタンを紛失した場合、ボタン不足でその服が着れなくなるのは嫌だから、複数個揃った同じ型のボタンは常備しておきたい。
なんなら色、サイズ、素材は多いほうか合わせやすい。
まあ、一言でいえば単なるケチなんですよね。
実際、ボタンを取っておいてよかったこと、あります。
子供が図工の授業で作品を作るとき、家からリボンやビーズ、ボタンを持ち寄りましょう、と学校なら指示がありました。
子供には好きな色、形、種類を好きなだけ持っていきなさい!と与えることができました。
ミニマリストのご家庭なら、必要な分を買って持たせたりするところでしょう。
仮に保管するとしても、私のように片っ端から集めてはいないはずです。
戦中世代の親を持つと、物に対する執着がハンパなく育つのです。
使えるモノを捨てるなど言語道断。壊したり失くしたりしたら2度と同じものは与えてもらえませんから、必死で大事にしました(私の両親だけでしょうか?)。
逆に夫の両親は戦後生まれなので、夫の家族は揃って、物の扱いが雑です。
出会って以来、彼らは傘など何度忘れたり、失くしたりしたことか。
そんな親の子だからか、夫はすぐに家電を壊します。
冷蔵庫のチルドルームの扉。
掃除機のゴミ受け。
充電式掃除機の充電器も失くされました。
買って日の浅いものを、あり得ない形で壊されると私は憤りを覚えるのです。
長く使うものなのに!と。
とにかく私にとって、ものはへたるまで使い倒すのが当たり前。
何かに使えるものは捨ててはならない、というのが、疑いのない常識でした。
だから私の実家は、インテリアそれなに?状態でした。
洋風だったはずの「応接間(リビングですらない)」には、亡父が集めた不気味なお面がズラッと飾られていて、まともな神経の持ち主だと耐え難い空間になっていました。
母が私物で埋め尽くしていた和室も、その部屋の押入れも、脱衣所のタオルや石鹸が詰め込まれた棚も、私の記憶にあるのは全て
「開けると物が滑り落ちてくる」
状態です。
そして、そんなのは嫌なのに、自分の家が全くスッキリしない、というストレスを抱えています。
時間が足りないのです。
精査して、仕分けして、きちんとスタンバイさせたいのに。
同じ気持ちの家族は他に1人しかおらず、残りの2人は置きっ放し、脱ぎっぱなし、床に平気でじか置きしそれを避けもせず踏んで通るのです。
なぜこんな嫌な思いをしなきゃいけないのか。
じゃあ、集めなきゃいいじゃん、と思う人もいるでしょう。
別に私はコレクターではないのです。
同じものを集めてしまうだけで、集めようと思う特定の対象があるわけでは決してありません。
そう、集めてしまう。
自分の認識としては、気づいたら集まってしまう。
そんな行動を無意識のうちに選んでいるわけですから、ものは増えこそすれ、減ることはありません。
今回、仕事のスマホが故障したのも、データの溜め込みすぎがキッカケです。
データを溜め込んだ理由は、これまたデータ過剰でパソコンの容量が不足したとき、パソコンで保管するのを諦めたから、です。
かさばらないはずのものですら、集めすぎてしまう。
強い意志を持ってものを減らさないと、ダメなのです。
集めるのが得意、といっても、実はロクなものを集めていないかも。
そう考えると、自分のやっていることの無意味さに押しつぶされそうになり。
眠る前はいつも、明日こそ目が覚めませんように、と願う日々を続けるのです。