とあるブログを読み、日本人の国民性に想いを馳せていました。
コロナ禍でも、九州や中部地方を襲っている豪雨や水害であっても。
支援の手が届くところと、そうでないところがあり、往々にして困り度合いが大きいところにはなかなか行き届いていないのではないか、と感じる人は少なくないはず。
きっと日本人はあの戦争の時も、そうやって我慢してきたんだろうな、と思います。
ウチは命が無事だったから。
お父さんが戦争から戻ってこられたから。
家が焼けずに済んだから。
ーーだから財産を失っても、食べ物や着るものが足りなくても、身体の調子が良くなくても、贅沢言ってはいけないんだ。求めてはいけない、みんな苦境にあるんだから。
恵まれた部分に目を向けて生きていくのはすばらしい。けれど、そういうものの見方は果たして自発的なものと言い切れたのかな、とふと想いを巡らせました。
日本人は辛いことや損失を声高に叫ぶことを良しとしない国民性があります。ただ、そのことが、誰かを利する結果をもたらしてはいないでしょうか。
今回のコロナ禍でも、政策対応に不満を述べた人たちに対し「大変な時期なんだから苦情など言わず、一致団結を」なんて声があがりました。
被害や損失に対して、困ったことを訴えたりなんらかの助けを求めるのは正当な行為だと思うのです。
美徳につけこんでサボタージュする人々・組織を許さないためにも。
みんなが大変なときだから、我慢。
そうやってかき消された声が日本社会ではどんなに多かったことか。
そしてその我慢は、個人が主体的にしているというよりはむしろ、そうしないと居心地がよくないという社会的なプレッシャーによるものではないのか。
弱いところにひずみが出やすい、そう思うと、そのひずみを覆い隠さんばかりの空気は、打破していかなくてはならない、救うべきを救わなくてはならないーーそんなことを考えるきっかけになりました。