ときどきお邪魔するブログに、素敵なエントリを見かけたのでご紹介します。
許せないという気持ちを、人はいつ学ぶのでしょうか。
もはや憎しみと表裏一体になっている強い感情もあれば、日常生活の一コマでサッと脳裏をよぎる思いまで、程度も持続性も極めて幅広い気がします。
好きの反対は無関心、という有名な言葉もあります。何かしら特別な感情を相手に抱いているという点で、許せない相手が人の心の中で居場所を得ているのは確かです。
これまでを振り返ると、仕事上で許せないと思った経験のうちくすぶったり尾を引いたりしたのは、個人として人格に嫌な形で触れられた相手が絡んでいます。わかりやすく言えば、仕事上の人間関係に過ぎない人物から人格否定を受けた時です。仕事の成否を左右しかねないやりとりに対してではありませんでした。
しかし、それよりも、許すかどうかで引っかかるのはやはり、私的な間柄の方がより根が深いです。
近年の例でいえば、信頼を寄せていて、親しい間柄を築いていると思っていた相手との関係が大きく歪んだことがありました。
辛い、暗い思いを抱えて過ごしたからか、全治3ヶ月の病すら患ったほどです。
それでも、どうにかならないのか、私が歩み寄れば元に戻るのではないか、などと甘いことを思い描いたものの、結局私が静かに立ち去りました。
許したい気持ちがあったから、歩み寄るという選択肢を思い浮かべることができたわけです。でも、やはり、無理でした。
前向きに受け止めよう、好意的に解釈しようとどんなに試みても、あたかも自らに言い聞かせているかのようです。
ひょっとして、本当はこういう気持ちだったのではないか。そんなことを思うや否や、本心はやはり行動に現れると打ち消す思いが湧いてきます。
そのうち、歩み寄りながら、かつての好ましい距離感を取り戻しつつあると思いながら、はたと気付きました。元に戻ったら、また同じ道を歩むことにしかならない、と。
何事も起きなかったかのごとく接することができるということは、私が許す許さないで思い悩んでいる件に対し、相手は何一つ重みを感じていないからであるーー
結局私が、許す許さないと悩むに至った出来事を水に流すことなどできず、こだわっているのは変わらない。
私が「気にしない」と思うためには相当の努力を要するのに、相手がどこ吹く風でい続けることが我慢ならない。
つまるところ、私は相手に変わってほしかったのです。
起きてしまったことは取り消せないけれど、後から詫びる、反省する、再発しないと約束する。なんらかの変容を相手に求めていました。なぜなら、関係性を変える力学は相手が始めたことだったからです。
双方向の変化など見込めない。一方的に関係性のバランスを崩してきたのに、そのことで私が影響もしくは被害を受けたのに、私が変化したことに対して相手は何も変わらない。
キャッチボールも成立しなければ、シーソーのように揺れるわけでもない。
これは私が望む関係性ではありませんでした。
許す許さないで悩んでいた間、かつて存在した関係と思い出をなつかしんでいました。再建できないものかと淡い期待すら抱いたはずです。
でも、一度損なわれたものが元どおりになることなどあり得ない。その現実を受け入れるのには月日を要しました。
許さないことを選び、無関係になりました。
許さなかったことへの後悔はありません。むしろ、許してなんかいないのに、許した風で振る舞う道を歩まなかった自分の誠実さを、誇りに思いたい。
運命論者のようですが、こうなるしかなかった、その一言に尽きます。
もう二度と会うことなどない。
顔を見ても、見知らぬ人とすれ違うかのごとくやり過ごすことでしょう。
忘れようとするのに、もう努力など要らない。人はそんなにたくさんのことを後生大事に心に抱えておけるわけではありません。
私のことを相手がどう思うのか、想像することもありませんし、興味もないです。なんなら忘れていて構わない。これぞまさに、終わった、ということなのでしょう。