私がまだ子供のころ、母が私に絵を習わせたいと考えました。
父に伝えたところ「そんなもん、習わんでええ。家族で週一回、絵の練習すれば済む」との回答。
お母さんは習わせたかったんだけど、ピアノもバレエも習っていたし、家計も無限ではないしね、とかなんとか振り返っていました。
私は覚えています。
旅行で出かけた琵琶湖の風景を、家族で描いたこと。自宅で、たった一度だけ。
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死んだ父は囲碁が趣味でした。週末は朝からテレビの前に陣取り、NHKの中継を見て碁盤に並べていました。新聞の囲碁記事(いま、見かけませんがまだあるんでしょうか?)を切り抜いて綴じたりして。
確か段位をとったりしていたみたいです。詳しく知りませんが、通信で試験のようなものを受けるのでしょうか。お師匠さんのもとで学んだことはないようでした。
独習でソコソコの段位をとったのは悪くない話とは思うのです。ただ、ある時私は気付きました。
この人は、他人から何かを習うことの意味がわからないし、教わることができないんだ、と。
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母は教員でした。よその子供達に物を教える仕事です。
習い事も好きで、お茶にお花、書道、洋裁、手芸にケーキ作り、英会話などなど、それはそれはいろんな先生から習っていたのです。プロから学ぶことの意義を両方の立場から理解し、実践しては世界と人脈を広げていました。
その結婚相手が、習い事をしたこともなく、学生時代は家業の手伝いで部活もしたことがないという亡父。人から学ぶことを知らないので、文字通り周りからもなにも学ばないのです。
思い込みが激しく、誤学習の修正ができず、意固地で鼻つまみ者。独りよがりが服を着て歩いているようなものでした。
そんな亡父から教わったことは、家の外で実行すると笑われたり、叱られたり、恥をかいたり。はっきりいって有害でしかありませんでした。
他の人の知見を謙虚に学ばないから、世界が広がらない。
教わったことがないから、適切な教え方もわからない。
その結果、私は「よそはよそ、うちはうち」のローカルルールでがんじがらめになり、家とは緊張して疲れる場所でしかなかったのです。
家の外に出れば、聞いたこともないルールが当たり前のように共有され実行されている。皆目見当がつかないまま、緊張とストレスに苛まれて過ごし、疲れ切った状態で降ってくるのが世間とズレまくった親父の勘違いアドバイス。
物心着いてから多感な時期まで、社会で生きていくのに役に立たないどころか、逆効果でしかない教えを押し付けられていました。
今になりようやく、学び直して上書きできつつあるかな、と実感しているほどです。
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誰かのいいなりになるわけでもなく、独善的で誤った根拠に基づいて判断するわけでもなく。
自分で選択するには、先人から学び、吸収することが欠かせません。
他の人の脳や知恵を借りるという道を捨てていた亡父が愚かで、人格に欠け、兄弟からも煙たがられるほどだったのは当然の成り行きです。あんな親の子供に生まれなければよかったーー記憶が残る頃からすでにそう思っていた私は、本能的に異常性を感じ取っていたはずです。
今の医学だと、脳機能または神経のどこかが欠損しているか、異常が見つかるか、といったところでしょう。仮に人様から学ぶ機会があったとしても、亡父は学ぶ力をそもそも持ち合わせていなかった可能性があります。使わないものは使えない。そうやって愚かさに磨きをかけたまま、自分の何が問題で、どれだけ周りの人たちに不快感をまき散らしたか自覚することすらなく、死にました。
親が死んだ時、全く悲しいとすら思わなかった。葬儀には参列したものの、はせ参じるなど思いもよらなかった。ここまで子供に思わせる親がどれだけまともでなかったか。
家庭が安心安全の基地、と信じて疑わない多くの方には、何が何だかさっぱりわからないことでしょう。
世の中には、親として不適格な成人のもとに生まれた不幸な子供が、存在するのです。自分だけが正義だと謎の理論を振りかざして、力で支配しようとする俗物が。