いじめによる自殺を選ぶ子供たちのニュースが続いていたときから、ずっと頭をよぎっていたことです。
日本の子供たちの生活において、学校の占める割合があまりにも大き過ぎるのではないでしょうか。
10代のころ、大陸ヨーロッパの中等教育機関に通ったことがあります。
現地校の英語の授業で、こんなやり取りがありました。
「あなたにとって、学校とはどういうものですか?」
日本で育った私はなんの疑問も抱かずに、こう答えました。
「私の生活でもっとも重要な地位を占めるものです」
その答えは、同級生を驚かせたようでした。
彼らから出てきたのは、こんな言葉でした。
「生活のほんの一部を占めるに過ぎないもの」
「退屈なもの」
授業内の質問で、退屈と言い切る勇気にも驚きましたが、学校生活の存在感の軽さが、私には驚きでした。
今は制度が変わった面あるようですが、当時のその国の中等教育機関の授業は原則、昼食前に終了、週に一、二回だけ、午後にも授業がありました。
放課後は真っ直ぐ家に帰ります。昼食は自宅に帰ってとるからです。
部活動はなく、一部、希望者のみの課外活動がお稽古ごとのように用意されるだけ。
スポーツや音楽などは、地域のクラブに参加するのです。
日本のような大学入試はないので、受験勉強もありません。当然塾もありません。
勉強は大学進学に必要となる「高校卒業資格」を取るために、個々が自ら取り組むものです。
5年生(日本だと小学生!)から留年があり、二回をこえると退学です。私の通った学校も、卒業資格をとった生徒は、入学した生徒の半分未満でした。
その国で学校とは、勉強をする場所という役割以上のものは、社会からは期待されていませんでした。
もちろん同級生のなかに友達も出来るでしょうが、日本のように放課後もつるむことは、(遊びだけでなく、同じように塾に通ったり、も含めたつきあい)まずありませんでした。
授業以外の活動を通じての学びというものは、学校に求められてはいませんでした。
翻って、日本の場合。
中学生、高校生の生活で、学校とは無縁のところで人間関係を築くことができる機会は、果たして充分に用意されているのでしょうか?
部活も塾も、学校と無関係とは言い切れない場所です。
学校によりけりでしょうが、アルバイト禁止をうたう場合もあります。
習い事や信仰を通じた集まり、またはボランティア活動にでも参加しない限り、ほとんどないと言えませんか。
受験勉強を最優先する風潮のなか、純粋な私的校外活動に取り組む生徒は、少数派ではないでしょうか。
そんな子供たちが学校生活で行き詰まったとき、逃げ場はどこにあるのでしょう?
いじめにあって、相談できる人間関係も、立ち寄れる場所もなければ、絶望して命を絶つ子供たちが現れるのは、自然ななりゆきと言えそうです。
お邪魔しているブログのひとつに「雨の日は本を広げて」という書評ブログがあります。
先日、学校についての本(エントリは
こちら)を取り上げておられました。
私はこの本を読んではいないのですが、フロびぃさんのコメントに強く共感を覚えました。
日本の社会は、学校に多くの役割を担わせ過ぎ、そして子供たちの生活を学校どっぷりにさせ過ぎている、そのために社会的な歪みがでているのではないか、私にはそう思えてならないのです。
いじめに限りません。塾通い必須の生活も、そのために家庭の経済力が子供の進路に大きく影響を与えてしまうことも。
学校が日本の子供たちにとって、家庭外でほぼ唯一絶対的な「居場所」にされてしまっていることが、あちこちに問題を撒き散らしているように感じます。
もう少し、学校に求めるものを絞りこんだうえで、その代わりにしっかりと身に付けて子供たちが卒業していけるように、切り換えられないものでしょうか。
物理的にも時間的にも、学校に関わりすぎているために、寝ても覚めても学校という暮らしを強いることが、果たして子供たちの健全な成長に繋がっているのか、改めて考え直す必要がありそうな気がします。
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