十代の頃…それこそ硝子のような年頃でしたでしょうか。
自ら志願したとはいえ、見知らぬ世界に飛び込んで、どっぷり孤独な気持ちを味わっていた時期がありました。
何だか大変だなあ、ツラいなあ、そんなことばかり感じていたであろう私。
そのうち、当時の私はおそらく、こんなことまで思っていたような気がするのです。
「私はこんなに大変な思いをして、気の毒なんだから、どうしたの?って声をかけてもらったり、やさしくしてもらえる権利があるのではないか」
実態は、と言いますと。
何だか辛気くさい、冴えない表情の人に手を差しのべてくれる人なんて誰一人おらず、構ってくるのは変なひと…
そばでは、なんの悩みもなさそうに能天気にケラケラ笑っている人が、いろんなひとに声をかけられて、仲間を増やして…
それこそ「仲間にはいれずにいるひとには、声をかけて、誘ってあげましょう」と親からも先生からも?習ってきた私には、きっついなあ…という日々でした。
すねていた私の出していたオーラは、当然ろくなものを引き寄せなかったのです。
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私はそのとき、不覚にも自覚がありませんでした。
このやり方しか、私は知らなかった、ということ。
知らないひとから声をかけてもらうことを、ひたすら一方的に待っていた。
自分に気付いてもらうためには、自分はあわれな状態でなくてはいけないと感じていた。
まるで、雨の日にずぶ濡れになって泣いている、弱った捨て猫のように。
誰かに拾われて、暖かい部屋に連れていってもらって、ふかふかのタオルで拭いてもらい、ミルクを出してもらうことを夢見ていたのです。
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自分は、あわれな人を見棄ててはいけないと思って、我慢して耐えていたのに。
自分が惨めな立場になったときは孤立無援。
割りがあわないじゃないか…
いったい誰に、私はこの言葉を投げ掛けたかったのでしょうか?
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今の私からみると、あきれるほかはないのですが、私は自分の父親から、とんでもない処世術を学んでしまっていたのでした。
自分が逃れられない、父親の立ち居ふるまいなら、他のひとも逃れられないに違いない。
その誤った認識に、なんの疑いを持たなかったから、あの頃の私は、惨めさアピールに真面目に取り組んでいたのです。
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いろんなキーワードがありますが、父親とその一族から不覚にも受け取ってしまったこと、それはまさに「卑屈さ」と言えるでしょう。
三年前に病気になった父親は以来ずっと、「死ぬ死ぬ詐欺」よろしく、母を相手に脅迫しています。
いかに辛いか、痛いか、苦しいか。
自分はもう長生きできへん…
そのころは自分はもう、おらんかもしれん。
字面にすれば、不治の病に悩むひとの心情の吐露ですが…
朝から晩まで、唯一の同居相手である母に、繰りごとのように呟き続ける父親。
かつての自分を見てしまうから、だけではありません。
世の人がなんと言おうと、私は聞く耳を持ちたくありません。
いえ、そんなことは、わざわざ書かなくても大丈夫なのです。
なぜなら、父親は私には絶対に同情を買うまねはしないからです。
私がもう、そんなことに乗ってこないこと、分かっているんですね。
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