夫が子どもの着替えを手伝うと、必ずどこか不備があります。
襟が曲がっていたり、ボタンをずれて留めていたり。
ズボンをねじれてはかせたり、靴下を伸ばしきれていないため左右の長さが異なっていたり。
肌着シャツが裏返しとか、水着の前後が逆ということもありました。(恥さらし…(-_-;)
夫の手先が、ちょっと考えられないくらい器用から程遠いのも一因ですが、本人がシャツのボタンがずれたまま気が付かなかったりするので、そもそもきちんと着ることへの関心が薄いとも言えます。
幼少期のもたつく身支度を待てなかった義母が、夫の身の回りの世話を全部やってあげたため、成長過程でスキルを身に付け損ねた、そんな側面もあります。
子供が夫に着替えを手伝ってもらったズボンはウエストのゴムがねじれ、下手するとズボン本体がねじれたままになっています。
その都度、親子に注意しますが、一向に改善の兆しはありません。
あるとき、子どもに注意したら「パパが間違えて着せるから」というのです。
「だったらパパにねじれていると教えてあげて、直してもらったら良いでしょ」
それを聞いた夫はある日、こう口走ったのです。
「服を真っ直ぐにしようとしても、すぐ逃げちゃうじゃない!!」
はたと気が付きました。
夫はとりあえず衣類を身に付けさせれば、着替えは完了と思っているのでは?
靴下の左右の長さが違うとか、襟が片方出ていないとか、ズボンを真正面に穿けていないとか、私に指摘されるようになって仕方なく?整えているだけかも知れない。
そもそも服を身に付けてから、そのあとに追加でやればよい種類の手順と位置付けているのではないかしら?
私にとっては、自分が着るにしても子どもに着せるにしても、初めからズボンや靴下は真っ直ぐ引き上げますし、衿は着ながら伸ばして整えます。
「着る」作業が完了したときには、当然整えてあるのです。
理屈っぽくなりますが、「服を着る」動作には自動的に整える過程も含まれているのです。
夫の辞書にある「服を着る」動詞には、襟やボタンを適切に整える作業は含まれていない?
お気づきの通り、着替えに限らず、夫は非常にものぐさな人間で、やりっ放しにしてしまうことが多いのです。
なぜこんなにものぐさなんだろう、ずっと不思議でなりませんでした。
ズボンを最初から真っ直ぐはかせようとしていれば、よほどのことがなければねじれることはありませんし、仮にずれても微調整ですむはず。
「まず」ズボンを引き上げる。「それから」ねじれを直す。
手順をそんな風に切り分けるから、二段階になって、手をつけるのが面倒くさく思えるのでは。
いざ取り組もうとしたら、途中で子どもに逃げられたりして、完遂できないのでは。
数多あるお片付けブログや断捨離ブログで「とりあえず」を戒めるメッセージをよく拝見します。
動作においても、ゴールをとりあえずのレベルにおいてしまうと、夫のように、中途半端にしかできず完了できなかったり、後からの手直しが手間に感じたり、自ら作業を複雑にしてしまうのではないかと、おせっかいにも感じざるを得ません。
一度引き上げたズボンを、正面に向け直すのにかかる手間、バカになりませんし(-_-;)
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